死を手にする

私はきっと最後まで自分の夢もしくは目標もしくは願いを叶えることはできない。

このまま終わりを迎えることしかできないだろう。

人は自分の幸せや願いが叶わないと絶望した時、そしてその先にある避けられない苦痛の日々を想像した時に、自暴自棄になり逃げ出す傾向がある。

途中で人生を終わらせたり、犯罪に手を染めたり、人に迷惑をかけたり。

その背景には「もうどうでもいい」や「幸せになれないなら頑張っても仕方がない」といったまるで悟ったような勘違いの考えに至るからであろう。

私の願いはきっと叶わない。
叶わなかった場合はそこで終えると決めている。
ただ、私は自分の願いを実現するための行動を最後まで続ける。

それはなぜか?

0,1%の希望に賭けているわけではない。
私は願いを実現するための行動をやり切りながら死にたいのだ。
それはこの理不尽極まりない絶望への、徹底した反抗とも言える。
何も成し遂げられない不甲斐ない自分へ、そして望んでもないのに抱えている宿命へ、最後の最後まで嫌がらせをしたいのだ。

「人間として最後まで生きてやったぞ」と。どんなにボロボロで、あらゆる箇所が千切れそうになろうが、最後には笑って死ぬのだ。

人生という、人がただ生まれて死ぬまでの期間の中で、それが何を意味するのか。

私たちは皆、人として生まれた以上、人として幸せな人生を送ることを望んでいるはずだ。

自分の幸せが叶わなかった時に人であることを辞める方が、なんの意味もないだろう。
それは人として生まれたことへの否定につながるのだ。

人として生まれた以上人として死ぬことで、幸せな人生や不幸な人生、全部ひっくるめて意味を持たせることができる。

だからこそ、自暴自棄になって自分で人生をやめたり、他人の人生を勝手に殺めたり、それを正当化させる行為は許されることではないのだ。

そもそも「死」は「無」を意味しない。死が無であるならば、はじめから生を存在させる意味がないからだ。

自然界は無意味なことはしない。科学的に見てもそうだ。

我々を含むすべての物質を構成する「素粒子」には死(無)がない。
※素粒子が寿命を迎えた際は別の素粒子に変化する。もしくはエネルギーに変換される。

つまり、人間としての死を迎えた後でも別の何かとして変換されるだけだ。

そして重要なのが今背負っている「宿命」は別の何かに変換されたからといってリセットされるわけではないということ。

宿業がないのであればそもそも現世で苦しむ必要はないだろうし、宿業があるのであれば別の生物へ変換されてもリセットはされないだろう。

話は戻るが、私は最後の最後まで足掻く。命尽きる瞬間まで。

どうせ生まれ変わっても同じ苦しみを味わうのであれば、最後くらい人間として終わりたいものだ。

人間として少しでも何かを残せるように。

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